ミロク塾 塾長の和田慎司と申します。


中学受験で大阪の吹田市にある関西大学第一中学校に入学し、そのまま関大一高・関西大学を卒業。10年間サッカー部に所属し、どちらかと言うと勉強よりもサッカーと学校外の遊びに情熱を注ぐ、よくいる体育会系の学生でした。卒業後は自分の就きたい職業が見つからず、半分は自分探しの旅のような形のアメリカ留学へ行きました。

1年のアメリカ留学を経て改めて気づかされたのが、日本と日本語の素晴らしさでした。離れてみてよくわかる大事なこと、とよく言いますがまさにそんな言葉がぴったりでした。そこから日本語を勉強し直し、作家になりました。作家業のかたわらしていたのが塾講師でした。

それから…、様々な仕事につきました。東京の銀座、大阪の北新地と言われる高級クラブひしめき合う北新地で働いたり、サッカー界の重鎮「釜本邦茂」が経営する釜本企画で5年ほど働いたり、大阪の北浜のビジネス街ど真ん中にカフェの店長として立ち上げたり。これほどいろいろな職業を経た20代を過ごした30代はなかなか少ないのではないかと思います。

そういった仕事をしながら塾講師も続けていました。このバランスがまたよかったかもしれません。実は、大学入学時には教員を目指していました。4回生では教育実習にも行ってきました。しかし、そこで感じた大きな違和感は自分が教員の道に進むべきではない、という決意が固まるものでした。

というのも、当時の22才の僕には(今でも多分同じことを思うだろうけど)教員の都合で授業が進んでいる、というのを肌で感じました。集団行動で、多くの生徒がいるのでもちろん全員の言う通りや思い通りにはできません。学校のルールももちろんあります。それが理不尽と言っているのではなく、何か問題が起きた時に、その対処の仕方が大人や教員目線で解決策が考えられているように感じました。

その教育実習に行ったうちの1クラスに、授業中に発言して目立ったらいじめられてしまう、という特殊なクラスがありました。もちろん違和感にすぐに気付き、担当の教員に話をしたところ帰ってきた答えは、「それはお前が考えることじゃない。おまえはただ、授業のやり方を淡々と練習しろ。お前は2週間で抜けるんだから、いなくなった時に責任取れないだろう?」と。

その担当の先生の言い分もわかる。そしてそれが現代社会なんだと思った。と同時に「絶対学校の先生にはならない」とその時思ってしまった。また、その生徒達に「申し訳ない」という思いと自分には何もできない、という無力感が溢れた。

そんな思いをした後のアメリカ留学は、海外の同世代の人たちに圧倒された。アメリカで出会った同世代の日本人にも圧倒された。自分は何者でもなかった。そして何者かになる為に始めた作家業。しかし心のどこかでずっと引っかかっていた、あの教育の現場の悲しさ。

それをどうにかしたいと思いながら、最初に教員になりたいと思っていた気持ちの燻りを持ちながら様々な職業で様々な人に出会った結果、気付いたことがこのミロク塾の理念にもなっています。

それは「楽しく生きている人」「自分のやりたいことをやりながら生きている人」です。人の人生はやはり人とのつながりが欠かせません。使い切れないようなお金を持っている人や一流スポーツ選手、有名イラストレーター、海外で活躍するミュージシャンなどなど、様々な人に会って話してきましたが、この2つがみんなの共通点です。

教育実習の時の違和感の正体も見えてきました。子供に「楽しく、やりたいことができる人生」を教えるのではなく、「いかに責任を取らないで済む」かを考えながら教えてしまっていたのです。もちろんすべての場面でそうではなく、あくまでも僕が体験したあの出来事、あの瞬間に限ったことなのかもしれません。

ですが、今を楽しく生きている人は辛いことが起きても、それすらを楽しむ心の余裕がありました。それを子供にも伝えたいし、辛いことから逃げるのではなく、真正面から向き合って乗り越える。

それをする為にオープンした、ミロク塾です。その為には、自然の中で思いっきり遊ぶ、楽しむことも大切だと思いました。だからこそ、大阪出身で木津川市には知り合いが一人もいないところから、自然豊かな木津川市でスタートさせました。

大阪からでも、奈良からでも、京都市内から通ってもらえるのも嬉しいです。もちろん、お近くのお住まいの方に来てもらえるのも嬉しく思います。とにかく子供が笑顔で、学びになって、自分が学んだことをついつい人に話してしまうような塾を目指しております。

長い文章にお付き合いいただきありがとうございます。

ミロク塾 塾長 和田